2008年04月10日
ダグラス・マッカーサーの一生
さてこの方はどんな人生を送ってきたのでしょうか。
1941年7月にルーズベルト大統領の要請を受け、現役に復帰してフィリピン駐屯のアメリカ極東軍司令官となった。大統領はマッカーサーを嫌っていたが、彼よりアジアに詳しく、優秀な軍人はいなかった。大統領はマッカーサーを少将で復帰させたが、彼は大変不満であった。一度は名ばかりでも「元帥」に就いていたし、自分は少将なのに、同じくフィリピンを本拠地とするアジア艦隊の司令長官で、知り合いでもあったトーマス・ハートが大将なのも気に入らなかった(アジア艦隊のトップが大将なのは、上海などで砲艦外交をする上で仕事をやりやすくするためという理由があった)。中将に昇進後も「Small fleet,Big Admiral(=小さな艦隊のくせに海軍大将)」と、相変わらずハートやアジア艦隊を揶揄していた。ちなみに、マッカーサーがウエストポイント校長時代、アナポリスの校長はハートであった。
12月8日に太平洋戦争が始まると、ルソン島に上陸した日本陸軍と戦い、日本陸軍戦闘機の攻撃で自軍の航空機を破壊されると、人種差別的発想から日本人を見下していたマッカーサーは、「戦闘機を操縦しているのはドイツ人だ」と信じた。怒濤の勢いで進軍してくる日本軍に対してマッカーサーは、マニラを放棄してバターン半島とコレヒドール島で篭城する作戦に持ち込んだ。2ヶ月にわたって日本陸軍を相手に善戦していると、アメリカ本国では英雄として派手に宣伝され、生まれた男の子にダグラスと名づける親が続出した。しかし、実際には救援の来ない戦いに自分たちが苦しみ、このままではマッカーサー自ら捕虜になりかねない状態であった。一方、ルーズベルト大統領は個人的にはマッカーサーを憎んでいたが、彼が死んだり捕虜になれば、国民の士気に悪い影響があると考え、マッカーサーとケソン大統領にオーストラリアへ脱出するよう命じた。マッカーサーはケソンの脱出には反対だったが、ケソンはマッカーサーの長い功績をたたえて、彼の口座に50万ドルを振り込んだ。実際には脱出させてもらう為のあからさまな賄賂であったが、マッカーサーは仕方なく賛成した。
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